7月7日、晴れ



私は彼の車から降りた時、零れそうな涙を堪えるのに必死で振り向く事など出来なかった。

出来るだけ感情を出さない様に我慢して我慢して・・・でも、最後にチラリと駐車場を出る際に彼の車が視界に入って運転席の彼を見てしまった。

彼は・・・彼はハンドルに顔を埋めていた。

泣いてるの?

私が言った言葉で彼を傷付けてしまった?

でも、彼は私の問いに一度『ああ』と言っただけで、後は何も答えてはくれなかった。

私の言葉を否定してはくれなかった。

否定して欲しかったのに。

違うんだと、言って欲しかったのに。

彼は何も言ってはくれなかった。

未来があると一瞬でも思った私の恋は終わってしまったのだ。





「成島さん、以前、校門で絡まれていた方とはお知合いなの?」

翌日、クラスメートにそう聞かれて、そう言えばこの人は彼と初めて会った時に助けようと声を掛けてくれたのだと思いだした。

「ええ、まあ」

過去形になってしまうけど、と心の中で付け加えた。

彼女があの時、私の名前を呼ばなければ、彼は私をホテルになど誘わなかったのだと思ったが、それは責任転嫁というものだと思い直した。

彼女はあの時、厭くまでも善意で声を掛けてくれたのだから。

「もしかして・・・お付き合いされているとか・・・じゃないわよね?」

否定の確認をする彼女の意図が読めないままに頷く。

「ただのお知り合いの方ですが」

そう答えると彼女は安心したように頷いた。

「そう、そうよね。成島さんの様な方があんな方とお付き合いなさる訳がありませんものね」

私は彼女の言葉に猛然と腹が立った。

あんな方ってどういう方の事ですか?

あなたに彼を侮辱する権利があるとでも?

彼はあなたなんかよりも余程優秀で優しくて素晴らしい人です。

私は声を大きく出して叫びたかった。

「私、昨日、その方に呼びとめられて成島さんが帰られたかどうか聞かれたので、思わず帰られた事をお伝えしてしまったのだけど大丈夫でした?」

私、少し、怖かったもので・・・と言う彼女の言葉に私は彼が駅まで追いかけて来た原因を知った。

「それは・・・ご迷惑をお掛けしたようで申し訳ございませんでした。大丈夫です。あの方は私にちょっとした用事があっただけで、用件は無事にお伝え致しましたから」

ニッコリ笑ってみせると彼女は安心したように私の前から消えてくれた。

人を外見だけでしか判断できない可哀そうな人だ。

私は思い浮かんだその考えに自分自身を笑った。

そう言う私だって彼を初めて見た時、チャラチャラした格好をした軽くて遊んでいる人だと思っていたじゃないの。

他人を責める資格など私にはないのに。

私はどこまで傲慢なのか。

だから、やはり彼には相応しくないのだ。

彼は見掛けがああでも優秀で素晴らしい夢を持っている人だもの。

古い家に縛られている私が捕まえられていられる筈がない。

もう逢わない事はきっと彼の為になる。

私は必死に昨日、彼に伝えた言葉を後悔しない様に言い訳をした。

おそらく、彼を傷付けた事を悔まない様にと。





「お姉ちゃん、最近は帰りが早いんだね」

妹は無邪気に尋ねてくるから、私は嘘の理由を考えなければならなくなる・・・面倒だ。

「お姉ちゃんの帰りが早いと緋菜はイヤだった?」

「そんなことないよ!嬉しいよ!」

尋ね返して答えを誤魔化す。卑怯な私。

本当に最低な私。

こんな私が生きていてもいいものだろうか?

甚だ疑問だ。

この家だって、妹が跡を継いだ方が良いに決まっているんじゃないのか?

私が跡を継ぐ必要がどこにある?

ああ、それじゃ妹は好きな人と一緒になるのが難しくなるじゃないか。

この家の為に、妹の為に犠牲になるのが私には相応しい生き方なんだから。

犠牲だなんて・・・今までは考えた事もなかったのに・・・跡を継ぐ事がこんなにも重苦しく感じるなんて。

「でも、お姉ちゃん最近元気がないみたい・・・どうしたの?」

妹の言葉に我に返った。

「元気がないように見える?おかしいわね?どうしてかしら?」

妹の追及を笑顔でかわす。

元気がない?

死にたいくらいなんだから当然でしょう?

そう、私はもう死んで全てから解放されたかった。

そんな事は出来ないと解かっていながらも。

彼ともう逢えないなら・・・自分で言い出しておきながら、私は本当に勝手な人間だ。





私は未練がましい自分に呆れながら鬱々と過ごしていた。

思考は全てマイナスへと偏り、何をする気力も湧かずに食欲すら無くなってきた。

「最近、痩せたんじゃないの?」

母にまで心配をさせる始末。

「夏になって薄着になりましたから、少しダイエットをしようかと思って」

作り笑いを浮かべるのも辛い。

食事だけは無理しても摂ろうと心掛けた。


そして一日一日となんとか遣り過す。

今年の梅雨は雨が少ない。

空も私の代わりになど泣いてはくれない様だ。

涼しくて過ごし易いので体調の不良を季節の変わり目を理由に出来ない。

つくづく運に見放させている私。





もうすぐ月が変わる。

来月には期末試験があるから勉強しなくては。

そして、それが終わって夏休みになれば・・・彼の異母弟とのお見合いがある。

彼とは全然似ていない人と。

ああ、まだ忘れられないの?

自分から言い出した事なのに?

でも、忘れられない。

彼がしてくれた行為の何もかもが、私の身体に刻みつけられていて・・・思い出すと辛いだけなのに。

忘れるの!

彼はもうとっくに忘れている筈なんだから。

だってほら、それが証拠に彼からの連絡は来ない。

あれだけ頻繁に来ていたメールもない。

私はそれでも未練がましく携帯電話の履歴を覗く。

ずらりと並んだ『カズハル』の履歴。

一つ一つ見直す。

何度も約束を取り付けようと送られて来ていたメール。

もう二度と来ないのだから消してしまうべきだ。

彼の番号もアドレスも消して・・・しまえるの?

残しておいてどうするの?

もう二度と連絡は来ないのに?

私は彼のメールの履歴を一つ一つ消していった。

そして・・・彼の名前と番号とメールアドレスだけの彼の登録を抹消しようとして・・・

『削除しますか』の文字に躊躇う。

どうして躊躇うの?

私がOKと決定のボタンを押そうとしたその瞬間に着信を知らせるべく携帯が震えた。

ディスプレイには『メール着信・カズハル』の表示。

ウソ!

どうして?どうして?

どうして今なの?

あれから2週間もたった今になって、どうして?

私は涙が溢れて止まらなかった。

怖くて見る事が出来ない。

私は二度と誘わないで欲しいと言った。

だから誘いのメールである筈がない。

でも、もし。

もしかしたら彼は私に逢いたくなって・・・

誘われたらどうするの?

自分で言い出した癖に、誘われたら逢いに行くの?

だって、逢いたい!彼に逢いたいんだもの!

もし、もう一度誘ってくれたなら・・・私は震える手で携帯を開いた。

そしてメールを確認する。

メールには一言だけ『葵、今ナニしてる?』

私は笑った。

自分の勝手さを、自分の期待を、自分の愚かさを。

そうよ、私が彼に言ったのよ、二度と誘うなと。

それなのに何を勝手に期待しているの?

バカじゃないの?

それでも、それでも・・・彼はメールをくれた。

私の今を尋ねてくれた。

それは・・・私の事を忘れていないと言う事?

それは、もしかして、いつか逢いたいと言う事?

望みを持ってもいいのだろうか?

彼も私と同じ気持ちでいてくれていると。


私は怖くて返信など出来なかったけれど、彼からのメールは日付が変わる深夜に毎回送られてくるようになった。

『今日は昨日に比べて涼しいな』

『やっと梅雨らしー天気だな』

『今日は涼しいをとーり越してさみーくらいだぜ』

『今日、ナニ食った?』

『今日は暑かった』

『梅雨はドコいったんだ?』

私は一つも返信しなかったけれど、メールは全て大切に保存した。

二度と消す事がない様に。

そして今、送られてきたメールは『明日、晴れるとイイな』

明日は七夕。

彼は・・・彼は私に逢いたいと思ってくれている?

牽牛と織女のように再会できたらと思っているの?

明日晴れたら・・・彼らが逢えるように私達も会えるの?

私は彼のメールを何度も読み返しながら返信のボタンを押した。

そして文字を打ち込む。

『晴れたら、願い事は叶いますか?』

私の願い事が判りますか?

あなたの願い事は何ですか?

私と同じだと信じてもいいですか?

私はそのメールを送信した。

そして、送信ボタンを押したまま携帯を握りしめて動けなくなった。

メールを送り返して本当に良かったのか?

彼は驚いてもう二度とメールをしてくれないかもしれない。

送り返さなければ彼からのメールは送り続けられたのかもしれないのに。

私が握りしめていた携帯が再び震える。

今度は『着信・カズハル』の文字が浮かぶ。

彼からの電話。メールではなくて。

彼の声が聞ける。

私は通話ボタンを押した。

『葵?』

ああ、彼の声だ。

低くて優しい彼の声。

涙がボロボロと零れて止まらない。

喉が詰まって何も答えられない。

彼が何度も私の名前を呼んでくれているのに。

逢いたい、逢いたい、逢いたい・・・声にならない声で何度もそう叫ぶ。

止まらない涙が息を詰まらせる。

返事をしない私に彼の問い掛けが止まる。

思わず零れた嗚咽が彼に聞こえてしまう。

彼の私を呼ぶ声が慌てた様子に変わる。

やっぱり知られてしまった。

『・・・声も聞かせてくんないの?』

彼の悲しげな声に私の期待が高まる。

『葵・・・葵に触れたいよ・・・葵が欲しい』

なんて艶めいてる声なんだろう。

ベッドの中で私を夢中にさせる声と同じ。

そして聞こえてくる溜息。

切ないのはあなただけじゃないのに。

「・・・狡い人」

私が泣きながら洩らした声は震えていて情けない。

『葵・・・』

彼が私の名前を呼ぶ。

それをとても嬉しいと思う私の方が狡いのに。

『葵、今から迎えに行く。門の前で待ってろ。30分で行くから』

彼の突然の言葉に驚く。

「・・・今から・・・ですか?」

時計を見れば、既に1時を回ろうとしている。

『そうだ、もう日付は変わったろ?逢っても構わねーよな?』

どんな理屈なんですか?

もう七夕だからとでも?

真夜中なのに?

家を抜け出せと?

非常識にも程があります。

色々と言いたい事があったのに、彼は言いたい事を言うと通話を一方的に終わらせてしまった。

彼が迎えに来る・・・30分後に。

私は・・・私は、彼に・・・逢いたい気持ちに嘘が吐けなかった。

買って貰ったばかりのワンピースを出して慌てて着替える。

顔を洗って髪を梳かす。

そして静かに、足音をたてないようにそっと家を抜け出した。

暗闇の中で彼を待つ。

夏物のワンピースでは少し肌寒いほどの陽気だったが着替えに戻る気にはなれない。

そう言えば制服姿以外で逢うのは初めてで・・・彼は似合うと言ってくれるだろうか?と埒もない事を考える。

自分から逢わないと言った癖に、いそいそと待ちわびている。

私が自分に呆れていると車のエンジン音が聞こえて来た。

静かな住宅街にそれは響く。

両親が起きてくるのではないかと心の隅で怯えながら彼を待った。

果たして、それは彼の車で、彼が車の中からドアを開けて私に手を差し出してきた。

「葵、乗って」

本当に迎えに来てくれた・・・本物の彼が。

私は『本当にいいのだろうか?』との疑問が一瞬だけ浮かんだが、結局、彼の手を取った。

すると、彼が私の腕を引き寄せて抱きしめる。

ああ、久し振りの彼の温もり・・・嬉しい!

「葵、葵・・・」

彼が何度も私の名前を呼んでくれる。

嬉しくて嬉しくて・・・どんなに強く抱きしめられていても気にならない。

却ってその力強さが嬉しい。

「葵・・・」

彼の顔が近付いてキスをする。

ずっと・・・これが欲しかった。

私は彼の舌と舌を絡ませる事に躊躇しなかった。

何て大胆な事をしてしまうのか、自分から積極的にキスを望むなんて。

でも、ずっと欲しかった。

彼が、彼の唇が、彼の身体が。

何て浅ましい私。

でも、嬉しくて嬉しくて・・・また涙が溢れて来そうになる。

「あなたは酷い方です」

息が切れて離れた唇を惜しいと思いながら、私は彼を詰る。

こんな私にした彼は酷い人だと思う。

「私をどこまで貶めたいんですか?」

彼を詰っているのに思わず顔が緩む。

嬉しさが隠しきれなくて。

彼はそんな私を見て妖艶に微笑んだ。

「どこまでも墜ちて、葵」

まさに悪魔の囁きだった。



彼は黙って車をホテルへと走らせた。

私は何も異議を唱えなかった。

だって待ち切れなかったから。

彼に抱き締められてキスをされて・・・火をつけられた身体は、早く彼と一つになりたいと願っていたから。


ホテルの部屋に着くと、ドアを閉めた瞬間にキスをされた。

そしてキスを続けながら彼は器用に私の服を脱がしていく。

パジャマ姿から慌てて着替えた私は上下の下着とワンピースしか着ていない。

容易く裸に成れてしまう私に彼は私が期待していたと思うだろうか?

抱かれたいと思って出て来たと思うのだろうか?

浅ましい女だと思うのだろうか?

思われても構わない。

私は自分から彼のシャツのボタンを外した。

そして彼のジーンズのボタンまでも。

彼がキスを止めた。

私の行動に呆れたのだろうかと不安になると、彼は自ら下に着ていたTシャツを脱いだだけだった。

そしてジーンズをその場に脱ぎ捨てると、裸の私を抱いてベッドへと倒れ込んだ。

「葵」

彼が私の名前を呼んで髪を撫でる。

その優しい微笑みに私は余計な事を全てを忘れて彼に全てを委ねてしまう。

キスが再開されて彼の指が私の最奥を探る。

え?もう?

「葵、わりぃけど・・・もうイイ?」

彼の言葉に私は頷く。

だって、恥ずかしいけれど、もう身体の準備は出来ているから。

彼が挿って来て思わず声が出る。

待ちわびていたのが彼に知られた?

知られてもいい・・・私は墜ちていくのだもの。

彼に快楽を教えられて堕落していくの。

久し振りの行為はあっという間に絶頂を迎えてしまう。

彼のモノが私から抜け出て脚に濡れたものが掛かる。

「わ、わりぃ・・・着けんの忘れてた」

彼がティッシュで拭きながら私に詫びる。

全然気づかなかった。

「大丈夫だと思いますが・・・直に来る筈ですし」

そう確か・・・もうすぐ。

でも、彼は私を厳しい目つきで諭す。

「ダメだ!ちゃんとしとかねーと!オマエの親に合わす顔がねーだろ!」

私はその言葉にとても驚いた。

「あなたは・・・私の親に会うおつもりがあるんですか?」

思わず、気だるい身体を引き起こす。

「こないだもそう言ったろ?」

彼は私が忘れたのかと思って気を悪くしたように怪訝な顔でそう言った。

でも、でも、それじゃ・・・

「・・・私の母に会えるのですか?」

私の両親と会うと言う事は取りも直さず母にも会わなくてはならないと言う事で、つまり・・・

「私の母が憎くはないのですか?」

彼と彼の母親を不幸にした私の母が憎いのではないのですか?

私を彼の母親と同じような目に遭わせたいと思ったのでしょう?

だから私を誘ったのでしょう?

この前、私がそう思って尋ねた時に彼は否定しなかったのに。

「別に、オマエのお袋を恨んでるワケじゃねぇよ」

彼は私から顔を背けてそう言った。

嘘!

嘘じゃないなら私の目を見て言って下さい!


「オマエが成島の娘だと知って誘ったのは単なる好奇心だけだったからで、ナニも傷付けようとか思っちゃいねぇ。第一、オマエのお袋はナンにも悪かない。悪いのはオレの親父だけなんだし」

彼は起き上がった私を優しく抱きしめてベッドに横になる。

本当に、本当にそう思っているんですか?

信じていいの?


「葵、オレがオマエを誘い続けているのは、オマエが欲しいからだけ、なんだぜ?」

彼は私の目をじっと見つめてそう言ってくれる。

本当に信じても構わないの?

彼の瞳に嘘はない、と信じたい。


「前にも言ったろ?オマエの身体と心が欲しいって」

それは確かに言われました。けれど。

「・・・私の心は誰のものにもならないと以前も申しあげました」

私の言葉に彼は呆れた様に笑う。

頑固者で申し訳ありません。

ですが本心ですから。

そんな頑なな私に彼は静かに語してくれた、彼の過去と思いを。


「オレはさ、オレのお袋が死ぬまで親父は死んだモンだと思ってたんだ。ケド、お袋が死んで親父に引き取られて二人が結婚してなかったって聞いてスッゲー疑問だったワケ。オレだけじゃなくて弟も妹もいたのにさ。親父はオレ達を引き取る時に『義務と責任があるからだ』って言い切る様なヤツだったから聞く気にもなれなかったし。したら、色々と教えてくれるご親切な方々がいるワケよ。親父がどうして結婚しないのかとか、どうして子供がいるのに認知するだけなのかとかさ。そん時、オマエのお袋の名前を聞いた」

彼の言葉に私はもう何も口を挟む事が出来ない。

彼の言っている事は事実だと思う。

色々な社交の場で飛び交う噂話には閉口するものや口さがない物が多いから。

私だって色々と言われたり耳にした事がある。

私の父と母は会社と家を守るために親族の中で政略結婚をしたのだとか。

日頃の父と母を見ていればそんな事は馬鹿げていると笑い飛ばせるのに。

それでも、それを耳にした時、私は憤慨し、そして・・・傷付いた。

ならばやっぱり彼は・・・


「あのさ、オレの名前覚えてるだろ?」

彼の突然の話題の変化に戸惑うが。

「ええ」

と頷いた。

忘れた事など一度もありません。


「んで、弟も知ってるよな?ナマエ」

私は何も言えずに黙って頷いた。


「んで、オマケに妹の名前なんだけど、コレが静香っつーワケ。静かに香る、で静香」

更に続いた彼の言葉に私は訳も解からず、それでも頷くしかなかった。


「さて、ここで問題です。オレ達兄弟の名前に共通するものはナンでしょう?」

名前に共通するもの?

当然、苗字以外に、のはずだから・・・

和晴・靖治・静香・・・共通しているものとはなに?


「ちなみに、オレ達の名前は親父がつけたそーです」

そう言われても・・・それではヒントになりません。

困って何も答えられない私に、彼は低い声でポツリと呟いた。

「オマエの母親の名前って青華ってゆーんだろ?」

鈍い私はその言葉で漸く気付く。

「そ、オレ達の名前には全てオマエのお袋さんの名前が入ってる。スゲー執念だと思わねぇ?」

彼は明るく笑って答えを教えてくれた。

でも、それはとても・・・とても悲しい笑顔だった。

やっぱり彼は・・・やっぱり彼はとても傷ついたのだ。

私の母親の所為で。

大切な筈の自分の名前にそんな思いが込められていると知った時の彼の気持ちは?

私には想像も出来ない。

ただ、彼がその時、とても傷ついたであろうと推測する事が出来るだけで。


「聞いた話じゃ、最初にした結婚もオマエのお袋さんに出会ったから離婚したとかゆーし、その後は誰とも結婚してねーし、スゲーよな?それも相思相愛だったとかゆーならともかく親父の独り相撲だったらしいじゃん。バカみてぇ」

彼の言葉に私の母を批難する響きは見受けられない。

ただ、自分の父親を批難するだけで。

それは本心?

私には彼が批難している父親に対する寂しさがあるように見えるけれど、それは穿ち過ぎ?


「だからさ、オレは親父に恨み辛みはあってもオマエのお袋さんやオマエに復讐しようとかそんなコト考えたコトもねーぜ?ただ、ちょっと、どんなんかな〜って興味はあったケドね」

それがもし本当の真実なら・・・私はそれに縋りたいけれど。

悲しいかな、素直にその考えに飛び付けない。

だって、彼が受けたであろう心の傷を思えば、彼が私の母や私を恨んでいないとは思えない。

私なら許せないと思うもの。

それでも、それでも彼から離れる事が出来ない私は・・・私は彼の言葉を信じたいと思っている。

目を伏せて黙ってしまった私の髪を彼がいつものように優しく何度も梳く様に撫でる。

私を宥める様に。

でも、でも・・・本当に彼を信じられるの?

彼を信じてしまってもいいの?


私はふと思い浮かんだ事を尋ねた。

「・・・もう一人の弟さんは杜也さんと仰るのでは?」

あの人の名前に私の母の名前はない。

母親違いとは言え、彼だってもう一人の弟の事を知っている筈だもの。

案の定、彼は岳居杜也の事を知っていた。


「ああ、アイツは岳居のオバサンがつけたらしいからな名前」

眉を顰めて答える彼はもしかして・・・もしかしなくても知っているんだろう。

私とその人とのお見合いの話を。


「葵、する気なのか?杜也との見合い」

やはり知っていた。


「・・・断ってくんないのか?」

それはどうしてですか?

私が欲しいから?

それとも、もっと別の理由で?

私は彼に行って欲しい言葉があるのに。


「オレとこんなコトしておきながら、他の男と見合いすんのか?」

けれど、それは無理のようだ。

彼の手が私を誘う様に私の身体の上を滑る。


「オレから離れられんのか?」

彼は魅惑的に微笑んで私への愛撫を再開した。

唇は軽く触れるだけで舌は与えられず、胸もごく軽く輪郭を触れるだけでじんじんと強い刺激を待ちわびるその先端には触れもせず、濡れて彼を待ちわびる場所には指も入れずに太腿を優しく撫で回すだけ、酷い!

「ん・・・やめて!」

私はじっと耐えようとしたけれど、結局我慢しきれずに首を振って声を出してしまった。

はっとして、彼の顔を見ればニヤリと笑っている。

彼は私を焦らして楽しんでいる!

私はカッとなって彼の頬を思いっ切り抓ってしまった。

「イデデデ・・・いてぇよ!」

彼が悲鳴を上げる、けれど彼に私を批難する様な気配は見られない。

私はついつい彼を詰ってしまう。

「私を玩ぶのがそんなに楽しいのですか?」

彼を睨みつける私に、彼は頬を押さえながらも怒ったように否定してくれた。

「玩んでなんかいるワケねーだろ!」

本当ですか?

私の胸がドキン、と跳ねる。

もしかして・・・もしかして、彼は私の望んでいる言葉を言ってくれるかも・・・


「ただ、オレを欲しいって言ってくれるだけでいいんだ」

違った・・・

でも、そう・・・私も彼に何も言っていない。

彼からの言葉を待つだけで。

私が口にしているのは彼を詰る言葉だけ。

本当に卑怯で自分勝手な私。


「葵・・・言って」

甘い声で私に囁く彼。

間近で私の目をじっと見つめる彼の深くて青い瞳に私は負けてしまいそうになる。

『あなたが欲しい』

そうたった一言、言えばいいだけ・・・でも、それが言い出せない。

彼から言って欲しい言葉が聞きたい。

でも、黙ったままでは彼は私を焦らし続けるだけ。

私は黙ったまま、そっと腕を彼の首に回して抱き寄せ誘う。

これで許してはくれないだろうか?

彼は困った様に笑って、私にちゃんとしたキスをしてくれた。

その笑顔にすら私はくらりと決心を揺るがされてしまう。

きっと、唇を塞がれていなければ私は彼が望む言葉を漏らして懇願していた事だろう。

彼は何も言ってくれてないのに。

でも、それでも仕方ないと思ってしまう。

私が彼を欲しがっているのは事実だから。

彼が例え私と私の母をどうしようもないくらい憎んでいたとしても、彼に抱かれたいと思う気持ちが捨てられない。

こうして彼の腕の中で優しい愛撫を受けているこの瞬間がなくなるなんて耐えられないと思うから。

「ああ・・・っんん」

私は歓喜の声を上げる。

自分の快楽に貪欲な浅ましい声を。

そんな私を見抜いたかのように彼が更にねだる。

「オレの名前を呼んで、葵」

そう言いながら濡れた場所に吸い付く。

「やっ・・・そこは・・・だぁめぇ・・・」

狡い!一番感じる場所をそんな・・・ああ、酷い人。

彼が突然、私の身体から離れたので、私の心の詰りを彼が聞き止めたのかと焦った。

けれど、彼は私を焦らした訳でも、私の批難に応じた訳でもなく、脱いだ服を何やら漁って探し物をしていた。

そして私に背を向けたまま、ベッドに腰掛けて・・・ああ、あれを着けているのか。

私は彼に指でツンと突ついて伝える。

「大丈夫ですと言ったのに」

こんな風に中断されるよりは余程ましです。

でも、彼は断固として言い放つ。

「コレはオレの誠意の表れなの」

彼の誠意?

避妊の処置が?

私を不用意に妊娠させないようにする事が彼の誠意だと言うの?

ならば・・・ならば私は彼の言葉を信じてもいいの?

どこまでも疑り深い自分自身に私は呆れてしまいそうになる。


「だからさ、オレのお願い聞いてくれよ」

彼が私の上に乗りかかり、ゴム越しでも熱い彼自身を私の脚の間に擦り付けて懇願してくる。

彼の熱が冷めた私を熱くする。

何でも聞くから、言って・・・早く欲しい。

「名前を呼んで・・・葵」

耳元で甘く囁かれて私はあっさりと願いを聞き入れた。

「・・・和晴・・・さん」

恥ずかしくてとても小さな声しか出なかったけれど、さん付けで呼ぶなんて彼が望んでいた事なのかどうかも解からないけれど、彼の望みに応える事が出来たと思う。

そう言えば私は今まで彼の名前を、下の名前だけを呼んだ事が一度もなかった。

『波生さん』や『あなた』と呼ぶばかりで。

「葵・・・」

小さくとも私の声が聞こえた彼はとても嬉しそうに微笑んで私の名前を呼んでくれた。

ああ、そんなに喜んでもらえるなら、もっと早くから名前を呼べば良かった。

私だって、彼の名前を呼んだ時に不思議とふわりとした柔らかな感覚を覚えたのだから。

それはとても・・・とても幸せな感覚に似ていた。


私のそんな甘く優しい感覚は、彼が私の脚を両方とも大きく持ち上げた事によって羞恥に変わった。

「あ・・・やっ」

私の言葉だけのわずかな抵抗など諸ともせずに、彼の目の前で露わにされた場所に彼が熱い楔を打ち込んでくれる。

ああ・・・そう、これが欲しかったの。

私は動物に成り果てて彼の動きに合わせて快楽を貪る。

目を閉じて間もなく訪れる絶頂を待ちわびて・・・少しでもそれを長引かせたくて・・・

不安と頼りなさから、私の手が握りしめていたシーツから彼へと伸びる。

私をもっと強く抱きしめて。

そして私に縋らせて。

「葵」

汗だくの彼が微笑みながら私の名前を呼んで身体を寄せてくれた。

そして与えられるキス。

不安も何もかもが吹き飛んでしまう。

けれど、彼は突然、キスを止めて私の身体を抱え込み、くるりと身体を反転させた。

「え?」

気付けば私の身体は彼の上になっていた。

これは・・・騎乗位とかいうもの?

「今度は葵が上になって動いてみ」

彼がその手で支えるものを腰に押し付けられる。

動いた拍子に外れてしまったそれを私が入れるんですか?

確かにこの体勢では上に居る私が動かなければ何も出来ないし・・・私は腰を浮かせて彼を迎え入れようと試みる。

でも、彼の身体の上に横たわったままだとそれは難しい。

私は思い切って自分の上半身を起こし、彼と垂直になる様な体制を取った。

彼の腰の上を跨ぐようにして、脚の間の感触で場所を探る。

さすがに目で確認して挿れる様な事は出来ない。

彼の手にも導かれて、私は漸く探り当てる事が出来た。

「っ・・・あ・・・ん・・・」

いつもより、深く一気に挿り込んだそれに、苦しい様な・・・それとは違う様な不思議な感覚が襲う。

でも、跨ぐだけで精一杯の私にはもう動く事が出来ない。

じっと不思議な感覚に耐えたままでいると、彼が私の腰を掴んでこう言ってくれた。

「そのままでイイから」

彼が下から腰を動かし始める。

ゆっくりとした動きのそれは、それでも私を上下に揺さぶり、次第に激しさを増すと全身がガタガタと揺れる。

あっ・・・気持ちいい・・・けど、激し過ぎる!

彼の手が私の胸に伸びてギュッと握る。

そんな刺激を与えられたらもう・・・

私は耐えきれなくなって、彼の身体の上へと倒れ込んだ。

彼の細いようで逞しい胸の上で荒い息を吐いてぐったりとしていると、彼が私を優しく撫でながら抱きしめてくれて、労ってくれた。

「葵、よく頑張ったな」

そう言われて、私は彼に負担を掛けている事に気付き、彼から退こうとしたけれど。

「いいから、このまんまにしてな。オマエ軽いから全然ヘーキだし」

正直、身体を動かすのが辛い私は彼の言葉に甘える事にした。

彼の体温と鼓動を素肌で感じる。

小さいとは言えない私の身体をすっぽりと包みこむ男の人の身体。

彼の呼吸もまだ少し荒く、鼓動は早い。

このままずっとこうしていたい。

とても落ち着く環境にまどろみかけた私に彼が声を掛けてくる。

「葵、落ち着いたらシャワー浴びろよ。送ってっから」

彼はそっと私をベッドに横倒えてから先にシャワーを浴びに浴室へ消えた。

私はぼんやりとそれを見送った。

もう少し・・・もう少しだけでいいから傍に居てくれればいいのに・・・と寂しく思いながら。

彼の言葉は冷たい訳ではないと思う。

何しろ今回は真夜中に家を抜け出して逢ってしまったのだから。

彼は私を早く家に帰さなければと思ってくれているのだと解かっている。

解かってはいるけれど・・・このまま朝まで一緒に居たいと願う我が侭な自分が主張する。

ほら、やっぱり彼は私を玩んだだけ、私と私の母を憎んでいるからに違いない、だから朝まで一緒にいないで親にばれないように私を返そうとするのだと。

いいえ!違う!彼はちゃんと否定してくれた。

私の母も私も憎んでなどいないと、私だけを欲しがっているのだと。

私の身体と心が欲しいのだと!

でも、好きだとは、愛しているとは言ってくれていないじゃないの。

私があれだけ欲しがっていた言葉なのに。

私はそっと零れた涙を枕に浸み込ませて消した。





私の身体は重かったけれど、眠気には襲われなかった。

ぼんやりと見上げた空は雲に覆われていても明るくなって来ている。

両親に私の不在が気付かれていないだろうか?

「葵、今日・・・は無理だけど、明日またいつものトコで待ってっから」

彼は帰りの車の中で次の約束を取り付けてくれる。

私は何も答えられなかったけれど、彼はそれを少しも気にせず、私の家の前で私を降ろすと「じゃあな」と言って微笑んだ。

私はいつものように彼の車を見送った。

そして、角を曲がる手前で彼の車のハザードランプが点滅する。五回。

どんな意味があるのか聞きそびれたな、とぼんやり思いながら家の門を潜る。

静かに音をたてないように鍵を開けた。

「おかえり、不良娘さん」

そこには腰に手を当てて怒りを抑えて微笑む努力をしようと口元を歪ませている母と、その後ろで困った様に笑っている父がいた。

二人とも寝間着姿で・・・もしかしてずっと起きて待っていた?


居間で私は両親に問い詰められていた。

「夜中に家を抜け出して朝帰りとはいい度胸じゃないの!この間、聞いた時には付き合っている人はいないって言ってたけど、あれは嘘だったの?送ってくれた人は誰?今まで一体どこに行ってたの?」

母が私に次から次へと親なら尋ねて当然の質問をしてくる。

私は一つも答える事が出来ない。

正直に答えても母の怒りは治まらないだろう。

私は彼と付き合っている訳じゃないのだし、母に嘘は言っていないつもりだった。

彼の素性を話す事も出来ない。当然ながら。

今までいた場所を言えば母は卒倒してしまうかもしれない。

いや、この時間にこれだけの間戻らなければ容易に推測出来るのだから、今さら驚きはしないだろうか?

それに・・・


「青華、そんなに一遍に尋ねても・・・葵だって答えられませんよ」

父が興奮した母を宥めてくれる。

「葵、お前を送ってくれた人と、お前はちゃんとしたお付き合いしているのかい?」

父は優しく私に尋ねてくれた。

私が彼とちゃんとしたお付き合いをしている?

彼は今日も次の約束をしてくれた。

もう逢わないと言った私は彼の迎えにあっさりと応えてしまった。

だって・・・だって逢いたかったから。

彼がどんな意図で私と何度も逢おうとするのか、何度も私を抱くのか、本当の処は未だに解からないままなのに。

それでも・・・どんな理由だっていい!

彼が私と会ってくれるなら。

彼が私を抱いてくれるなら。

私は彼の求めに応じたい。

何て愚かな私。

彼の言葉を信じきれない癖に、彼に従おうとするなんて。

私の目からは涙が零れて来た。

ボロボロと泣き出した私に両親が驚く。

「葵、そんなに・・・泣くほど好きな人なの?それならどうして言えないの?」

母が優しい口調で尋ねてくれる。

私は泣き顔を両手で覆って何も答えられなかった。

母はともかく、父は彼の事を知ったらどう思うだろうか?

私を軽蔑するかもしれない。

それでも、それでも・・・私は彼が好きなのだ。

明日もきっと彼の呼び出しに応じるだろう。

逢わないでいる事になんの意味もないと思い知ったのだから。

両親の質問に泣いてばかりで一つも答えない私に父が漸く口を開いた。

「どうしても言えないと言うなら無理には聞かないけれど。夜中に家を抜け出すのは感心しないね。もうそんな事は二度としないと約束して欲しいね」

「・・・はい」

私はやっと答えを返す事が出来た。

そして私が両親の前から逃げるように部屋へ戻ろうとすると母から声が掛けられる。

「お見合いのお話はお断りした方がいいのよね?」

確認する様なその言葉に私は首を振った。

「お約束した事ですから・・・お見合いはします」

「え?でも葵・・・」

母の疑問に答えずに私は居間を後にした。

『どうしましょう、潤!あの子ったらやっぱり不倫してるのよ!!』

母の叫びが聞こえたが、私はもう反論する気にもなれなかった。

彼は私に見合いを断る様にと言った。

でも、私は断るつもりはなかった。

彼を疑いながらも彼に従い彼に抱かれる私は、いつか彼に引導を渡されなければならないのだから。

彼の願いを聞き入れず、家の為の見合いをする私にきっと彼は呆れ果てて私を見限るに違いない。

私からは彼と別れられないのだと思い知らされたのだから、彼から別れを切り出して貰えれば、きっと私は諦める事が出来るのだろう。

彼に酷い事をさせようとする私は、本当に臆病な卑怯者だ。

七夕の逢瀬は甘くて、そしてとても苦いものに終わった。







 

































 

Postscript


な、長い・・・テキストファイルとしてはオリジナルの中では最長かも・・・
だからリバーシブルって・・・

すみません、なんとか同日にアップする事が出来ました。
和晴サイドの「聖母の信頼」の葵ちゃんサイドです。
和晴、全然信用されてねーな。

葵はこのシリーズの初めから激しい自己嫌悪感に苛まれています。
和晴も似たようなものがありましたが、彼は彼女に出会って恋をしてラリホーな状態になってしまいましたから、そんなものはどこかに吹き飛んでしまいましたが、彼女は拘ったままです。
そんな彼女を和晴は救えるのか?
ガンバレ和晴!管理人はキミを無責任に応援している!

葵の見合いへの決心は揺るがないようです。
これは和晴から引導を渡して貰うと言うよりも彼の行動を試しているようにも見えます。
どこまで彼が本気なのか?

試すのって酷いですか?
でも、不安なら仕方ない事だなぁと思うのですが・・管理人は人非人ですから。

彼女が家族や他人を酷評するのは、彼女が頭が良くて冷静な部分があるからで決して冷酷な訳ではありません。
冷酷なら酷いなんて思う筈もないと思うし。
でも、聖母の様な微笑みを浮かべる彼女は実は少々黒いお方。
悪女や令嬢のように第三者や相手から見た目通りではないんだよと、それがはた迷惑な女達のシリーズタイトルに繋がるのでした。

さて次は、いよいよ見合いかな?


2009.7.27 up

 


 

 

 

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