『傍迷惑な女達』番外編

月は無慈悲な夜の女王




僕は地方都市の大きな病院の跡取りとして生まれ育った。

父は医師というよりは商売人で「医者はサービス業だ、患者はお客様だ」と言うような人だった。

医者になるのに苦労をして「金を使いまくって医者になった」と息子に言うような人だから、当然腕は確かではないが、自分は経営に力を入れて、優秀な医者を引き抜き、病院を大きくしていった。

そんな父を見て育った僕は、対外的に愛想の良い人間を装うのが上手くなった。

ニコニコとしていれば侮られても揉め事は回避し易い。

「医者が最も恐れるべきなのは評判を落として訴訟を起こされる事だ」と言う父の言葉は『医は仁術』という思想からかけ離れているが、事実であるとも思う。

自分が勉強に苦しんだ父は、早くから僕の教育にお金をかけた。

小学生の時から家庭教師がつき、中学の時の家庭教師は勉強以外のことも教えてくれた。

お陰で、東京の医科大学に何とか入学出来たし、後腐れのない女性関係を築く事も覚えた。

僕には小さい頃から親が決めた許婚がいたので、本気で言い寄ってくる相手にはそれを理由に断る事が出来たし、遊びで構わないと言う相手と楽しむ事が出来た。

そんな気楽な学生時代を送っていた時、学生街にある駅前で一人タクシー待ちをしている和服の美女が友人達の間で話題になった。

派手で気楽な服装の若者達の中に立つ着物姿は完全に浮いていた。

おまけにそれが飛び切りの美人なら少しばかり年上に見えても話題になる。

軽い気持ちで声を掛ければ無視をされ、強引にしようとすれば手酷く断られる。

駅前の交番の存在が彼女の強気を増長しているようだったが、公衆の面前で出来る無茶は少ない。

「峯下、オマエなら落とせるか?」

友人の言葉に僕は笑って首を振った。

「無理ですよ。高嶺の花ですねぇ」

「ふうん、オマエでも駄目か」

不特定多数の女と付き合っている僕の事をよく知っている友人はそう言ったが、よく見れば分かる事だ。

あの女はそう簡単に墜ちやしない。

僕に近づいて来る女は、僕の実家の事をよく知っていたり、僕が医大生であるからと、金目当てがあからさまでミエミエだ。

もちろん、僕の容姿が悪くない事も自負しているが。

友人達は気づいていないようだが、あの女はかなりの資産家の娘と見た。

何しろ、同じ着物を着ているところをまだ見た事がない。

着物は洋服と同じように安いものから高いものまで差が激しいが、それでもあの女の着ている着物は皆質の良い高い物ばかりだ。

それにあの美貌だ。

気位も高そうだし、金や容姿で引っかかってきていた女達のようには簡単に行かない筈だ。

僕には縁が無い女性だ。

そう思いつつ、見かける度に視線は奪われる。

夏を前に日傘を差すようになった彼女は、相も変わらず背筋を伸ばして立っていた。

ただ、時折、俯きがちに長い睫毛の影を落とす事があった。

その憂いた表情に僕は視線が外せなかった。

何が彼女にそんな顔をさせるのか?

僕は、近づかないと決めた彼女との距離を縮める事に次第に躊躇いを感じなくなっていった。


彼女にぶつかり、彼女の着物をアイスクリームで汚して近づくという、ベタな方法を取ったのは彼女を見かけてから一年以上も経ってからだった。

ベタな方法とは、昔から成功率が高いからこそ伝え続けられている手法だ。

恥ずかしがっていては、切欠などいつまで経っても掴めない。

想像通り、彼女は謝罪して弁償を申し出た僕に「結構です」と素っ気無く答えて去ってしまった。

けれど、これは厭くまでも切欠に過ぎない。

彼女が毎週同じ時間に来る場所を熟知している僕は、彼女を待ち伏せ、謝罪の代わりにと強引にカフェへと連れ出した。

自ら名乗り、身分を明らかにして彼女の情報を聞き出す。

名前と年齢と職業、口が重い彼女から聞き出すのには時間が掛かった。

名前は武居真理、年は26、いつも着物を着ているのは茶道の出稽古の為。

それだけを聞き出すまでに喋り倒した僕の振った話題から反応を見せたものの中から趣味を探り出した。

それで判った事は、真理さんは読書家で、好きなジャンルはSFとミステリーだと言う事、好きな原作のものなら映画も見に行くと言う事。

僕は意外な真理さんの趣味に僕との共通点を見出し、嬉しくなった。

週に一度の逢瀬が楽しみになり、真理さんと話が出来るだけで楽しい。

こんなにウキウキワクワクとした感じは子供の頃以来だ。

もしかして・・・好き、なのか?

僕と会話をしてくれるようになった真理さんに思い切って告白をしてみた。

「僕は真理さんが好きなんです」

すると返ってきた答えは当然ながら「困ります」だった。

僕は真理さんよりも年下でまだ学生で、彼女にとって恋愛の対象にはならないのだろう。でも。

「僕は諦めません」

そう言った僕に、真理さんは「わたくしには好きな方がおりますので」と言った。

誰なのか、真理さんは決して名前を口にはしなかった。

僕は湯水のように送って来る親の金で、遠慮なく真理さんの好きな相手の事を調べて貰った。

相手はすぐに判った。

何故なら、真理さんの周りには男の影が少な過ぎるから、だそうだ。

喜んでいいのかどうか、判らない状況だったが、相手の男はアメリカ人の実業家で離婚歴があり、今は独身だが、使用人との間に子供がいて、認知までしているらしい。

そんな男が良いんですか?

あなたの憂いの原因はその男ですか?

僕には何も出来ませんか?





真理さんとの逢瀬は週に一回、変わる事無く続いている。

僕がベラベラと喋り、真理さんが時折言葉を返す、といったようなものだったが。

それでも僕はその時間を大切にしていた。

セックスをするわけでもなく、どこかに出かける訳でもなく、ただ逢ってカフェでお茶を一杯飲む間に会話を交わすだけの時間を。


ただ、やはり時折、真理さんはボーっと窓の外を眺めたりする事があったけれど、僕はそれには気付かない振りをし続けた。

問い詰めれば何かが変わってしまいそうで・・・何かが壊れていまうのが怖かったのかもしれない。

そんな不毛で健全な付き合いが1年も続いた頃、真理さんが目を赤くして現れた。

僕はその原因を知っていた。

あの男と使用人の間にまた子供が出来たのだ。

彼女はそれを知って悲しんでいるんだろう。

僕は思い切って尋ねてみた。

「どうしました?真理さん。何だか元気が無いみたいですが」

「別に何もありません」

真理さんの答えは案の定、いつもの様に素っ気ない。

「目が赤いですよ。何か悩み事ですか?それとも悲しい事でも?」

けれど僕はその日、しつこく食い下がった。

真理さんにこんな顔をさせるあの男に猛烈な怒りを感じながら。

僕の問い掛けに真理さんはただ黙って首を振るだけだ。

だが、僕から視線を外して窓の外を見ていた真理さんの頬に涙が一筋流れた。

それは・・・とても綺麗な涙だった。

「真理さん」

そんな事を思って後ろめたい僕は焦って彼女の名前を呼び、真理さんはハンカチを取り出してそっと涙を拭った。

「失礼。何でもありません。今日はこれで」

立ち去ろうとした彼女の腕を掴んで僕は引き止めた。

「僕には何も出来ませんか?」

真理さんはそんな僕を嘲笑うかのように挑発した。

「あなたに何が出来ると言うのですか?」

愚かな真理さん。

男をそんな風に挑発しては駄目ですよ。

日頃、ニコニコして人畜無害な男だと、僕を侮っていませんか?

でもね、僕も男なんですよ。

好きな女性が泣いているのを黙って見過ごす程、情けない男でもないつもりですしね。

僕の前で弱味を見せたあなたがいけない。

僕は彼女を捕まえた腕の強さに、僅かに怯えを見せた彼女に笑いかけながら、本気になった男には敵わないのだと言う事を真理さんに身を持って教えてあげた。

それまでの思いをぶつけるかのように、何度も彼女を抱いて。


と言っても、僕の腕の中でキスにすら怯える彼女が初めてなのは判ったから、僕は丁寧な前戯を施した。

何度も何度もキスをして、キスだけで立っていられなくなる程に。

そして、鎧の様に纏っている着物を丁寧に脱がして、彼女の羞恥を剥ぐ様に一枚ずつ取り去った。

真理さんの身体は想像通りに素晴らしいものだった。

知らないでしょう?

あなたに只管喋り続けていた僕が、話題を考えながらもあなたの裸を想像していたなんて。

いつも露わにしている項に舌を這わせてみたいとか、その帯の上の胸の膨らみは大きいのか?小さいのか?とか、下着の線が出ていないのは専用の下着を着けているからなのか?それとも着けていないのか?とか、ね。

この身体を今まで誰にも味あわせた事が無かったなんて、あなたは馬鹿ですね。

身体を遣って誘惑すれば、あの男は墜ちたかもしれないのに。

あの男はそう言う男なんですよ?あなたは知らないのかもしれませんがね。

硬く、狭い場所に、根気よく指を抜き差しして解し、舌を遣って何度もイカせた。

僕がクンニまでするなんて初めてですよ。

今まで処女は面倒だと思ってましたし、そこまでしてやる気なんて一度も起きませんでしたからね。

けれど、あなたなら別ですよ、真理さん。

初めての恐怖や痛みを忘れるくらいに感じさせてあげます。

僕とのセックスが嫌な思い出にならない様に。

僕として、気持ちいいと思わせてみせますから。

気を失うまで真理さんをイカせた後、僕は彼女の身体を優しく抱きしめて何度もキスをした。

漸く手に入れた真理さんの身体。

彼女の処女は僕のものだ。

例え、心は僕には無くとも。

僕はキスや愛撫の刺激で真理さんが目覚めるまで待った。

そして、更にイカせてから、やっと射れた。

あれだけ慣らせても、やはり彼女は顔を顰めて痛がったが。

それでも、僕が出すまで我慢してくれた。

終わった後、真理さんは自分が動ける様になると、シャワーを浴びて、一人で着付けをして、何も言わずに帰ってしまったけれど。

僕は一度で終わらせるつもりはなかった。

勿論、次に会った時に、まだ少し怯えている真理さんを安心させる為に、二度目は間を開けたけれど。

流石に真理さんから僕をベッドに誘ってくれる様な事は一度も無かったけれど、それでも遠回しに誘えば断らない様になるまでにはなった。

僕は国家試験にも合格して調子づいていた。

傍らで身支度を整える真理さんを見詰めながらプロポーズをするほど。

けれど、そんな僕の言葉を真理さんは鼻で笑った。

「まだ一人前ではない癖に」と。

まあ、そうなんですけどね。

確かに、後二年程研修期間が残ってますけど、それでも僕は医者になったんですよ?

もう僕の事を認めてくれてもいいんじゃないですか?

それとも、やっぱり、あの男ではないと駄目なんですか?

あの使用人は双子を生んだそうじゃないですか?

これであの男とあの使用人の間の子供は三人にもなったんですよ?

あなたが入り込む余地なんてあるんですか?

流石に、そんな彼女を追い詰める様な事は言えないけれど。





僕は真理さんを抱けて、良かったのか悪かったのか判らなくなってしまった。

僕と関係を結んでも、真理さんは頑なで、僕に心を開いてくれた訳ではない。

逆に、彼女の身体を知った僕は、他の女とする事さえ出来ずに、彼女に溺れていくばかりになっている。

こんな事なら、彼女を抱かないままでいた方が良かったのか?

そんな事まで考え出す始末だった。

それにしても、あの男は使用人との間に子供を三人も作っておきながら、どうして結婚しないのだろうか?

あの男がいつまでも独身でいるから、真理さんは無駄な望みを捨てられないのだと思うのに。

いっその事、あの使用人がいなくなればいいのか?

そうすれば、あの男も真理さんに目を向けて、彼女の思いが叶って・・・そうしたら僕は捨てられるのかな?

愛人としてでも、時々会ってくれないだろうか?

僕とのセックスには満足してくれているみたいだから。

無理かな?

無理だろうな。

真理さんのあの性格じゃ。

それでも・・・それでも、やはり僕では彼女を幸せには出来ないのだろうと言う事は良く解かっていた。

だって彼女は僕と関係を持つようになっても、相変わらず悲しそうな顔をしていたから。

そんなにあの男の事が忘れられませんか?

僕では代わりにもなれないと言う事ですか?

それなら・・・それなら、あなたの為に僕があの女を追い出してあげますよ。

そうすれば、きっとあの男もあなたの魅力に気付く筈ですしね。

真理さん、僕は今まで、自分が一番の人間だと思っていましたよ。

あなたの為に自分の利を捨てる事が出来るなんて思ってもいませんでした。

それだけ、あなたの事が好きなんでしょうねぇ。




「お散歩ですか?」

僕は公園で双子用のベビーカーに乗せた二人の乳児と、その周りでチョロチョロと歩き回る幼児を連れた女に声を掛けた。

「え?ええ」

いきなり、知らない男に声をかけられれば警戒するだろう。

驚いた顔をした若い母親に、僕は得意の笑顔を振りまいて話を続けた。

「双子ですか?可愛いですねぇ。僕は研修医なんですが、今、産婦人科にいまして。こちらの赤ちゃんは今、四カ月くらいですか?」

ベビーカーの中で眠っている双子の髪は随分と明るい。

もう一人の子供は目が青い。

混血の兆候が顕著に出ている子供達だな。

「はい」

硬い声で頷いた若い母親は、中々警戒心を解かないけれど、僕はニッコリ笑ってゆっくりと足並みを揃えて歩き出した。

「それにしても双子とは、大変じゃありませんか?ご主人やご家族総出で育てないといけないと聞きますけど。上にもお子さんがいらっしゃるようですし」

僕の言葉に若い母親は「え、ええ、まぁ」と歯切れの悪い答えを返す。

彼女の左手には当然、指輪などない。

それに、今突然気付いた振りをして、僕はこっそりと囁いた。

「もしかして・・・ご主人がいらっしゃらないとか?失礼な事を言ってしまって申し訳ないです」

人にはそれぞれ色々な事情がありますからねぇ、と僕は呟くように付け加えた。

「それに、今ではシングルマザーに対する国や地方自治体の援助も充実してきている様ですし、住宅や税金の優遇措置など・・・無論、ご存じでいらっしゃるでしょうけど。あれも申告しなければならないので手続きが面倒な様ですけどねぇ」

チラリと若い母親を窺うと、彼女は僕の言葉を聞いて、何やら考え込んでいる。

「ああ、すみません。変な事ばかり申し上げてしまって。僕もそう言ったシステムの事を最近聞いたばかりなので」

3〜4カ月検診は済まされましたか?と尋ねると黙って頷いた、そして・・・

「私も、近いうちに出ていかなくては、とは思っているんです。いつまでもこのままでいたら、この子達に父親の事を何と説明すればいいのか判りませんもの」

突然の言葉に驚く僕に、若い母親は苦笑して見せた。

「以前、武居様とご一緒の所をお見掛けしました。私達がいなくなれば、彼女が旦那様の奥様になるのに、何も問題は無くなりますよね?彼女の様な人こそが、旦那様の奥様には相応しいと、私もそう思いますから」

ついつい、今まで甘えてしまいましたが、やっと決心が着きそうです。

そう言って若い母親は、唖然とする僕にペコリと頭を下げて去って行った。





なんだ?あの女は?

そう思っていたなら、もっと早く出ていけばよかったのに。

愚図々々しているから、真理さんを悲しませる事になったんじゃないか?

僕は、僕の目論見とは違った経緯ではあったが、目的は達せられたと感じた。

そして、1ヶ月もしない内に、波生瑠璃と言う使用人は子供達を連れてあの男の家を出ていった。

これでもう、真理さんは僕とは会ってくれなくなる。

そう思いながらも、僕は彼女に逢いたかった。

最後の時が少しでも先になれば良いと、微かな希望を捨て切れずに。

なのに、真理さんは僕からの連絡に「もうお会いしません」と一言だけ告げて、僕を尽く無視し始めた。

どうしてですか?まだあの男は仕事で海外に居る筈で、上手く行ったとは聞いていませんよ?

研修医になった僕は、以前の様に真理さんと決められた曜日に逢うのではなく、僕と彼女の都合の合う日に誘いを掛ける事になっていた。

それなのに、僕からの連絡に一切応じてくれない。

戸惑う僕に、以前、女避けに使っていた許婚が尋ねて来た。

昔からの顔見知りだが、年が離れているので妹みたいにしか感じていなかった。

地元にいる筈がどうして?と疑問に思っていると、とんでもない事を言い出した。

「武居真理さんと言う方にお会いしましたけど、雅也さんの事は『面識があるだけの赤の他人だ』としか仰っていませんでしたよ」

どうやって彼女の事を知ったのだろう?

そう言えば、国家試験に合格した事を両親に報告した際、チラリと真理さんの事を話してしまったのかもしれない。

あの頃は浮かれていたから。

それにしても余計な真似を!


僕は真理さんを待ち伏せて捕まえた。

「会えない理由をお聞きするまでは納得できません」

真理さんは僕の言葉に顔を顰めて、迷惑そうに答えた。

「わたくしには好きな方がいると申し上げておりますでしょう?あなたのような方とお会いして、あらぬ誤解を受けるのは迷惑ですわ」

そんな事は百も承知です。ですけど

「僕は諦めないと言った筈です」

彼女は呆れた様な溜息を吐きながら「いい加減に諦めて下さい」と言った。

僕はそんな言葉では納得出来なかった。

だって僕はまだあなたが好きなんですよ。

「諦めるのはあなたの方ですよ、真理さん」

僕はまだまだあなたに逢いたいと思っているし、あなたを抱きたいと思っている。

出来れば、あなたがあの男の妻になったとしても、この関係を続けていきたいと願う程に。

その可能性は高くなったが、あなたはまだそれを知らないでしょう?

だから、僕はあなたにこんな酷い事だって言える。

「あなたの好きな人はあなたの事など見向きもしませんよ。だって彼には子供を3人もなした女性がいるのでしょう?」

真理さんは僕の言葉に怒って、僕に平手を喰らわせた。

あなたの力はそんなものですか?

全然、痛くありませんよ?

「あなたには関係のない事でしょう?」

泣き出しそうな彼女の言葉に僕は笑った。

そんな事はありませんよ。

「関係あります。僕はあなたが好きだと何度も申し上げていますから」

僕は、僕を打った真理さんの右手を強く掴んで離さなかった。

そしてそのまま、彼女をホテルに連れ込んだ。

いつになく激しく抵抗した真理さんは僕の怒りをその身で受ける羽目になった。

感情の赴くままに彼女を抱いてしまった僕は、彼女の中に出してから漸く冷静さを取り戻した。

「すみません、真理さん。乱暴にするつもりは・・・」

僕は泣き続ける彼女を宥める様に抱き寄せようとしたが、その手を振り払われた。

「触らないで!これでもう二度と会わない理由に納得していただけましたわね?」

今の僕には何も言い返せない。

「わたくしはあなたの事なんて大嫌いです。もう付き纏わないで下さい」

真理さんはそう言って出ていった。

僕はただ呆然と彼女を見送る事しか出来なかった。

思いの外、彼女に『大嫌い』だと言われた事が堪えたらしい。

今まで彼女は、僕に『他に好きな人がいる』と言って僕を拒む事はあっても、僕の事を『嫌い』だと言った事などなかった。

だから、僕は知らず知らずの内に自惚れていたのかもしれない。

真理さんはいつかきっと僕を好きになってくれる、と。

僕の失恋は決定的になった。

けれど、それでも、諦めの悪い僕は真理さんに付き纏った。

あの時、僕は避妊をしなかったから真理さんが妊娠していないか気になって、と自分に言い訳までして。

だが、真理さんは今度こそ僕を徹底的に避けた。

家にも戻らず、お茶やお花の稽古も休んで。

あれが、あんな事が最後になるなんて嫌だ!と僕は必死になりながら真理さんを探した。

そして齎された真理さんの居場所。

慌てて駆けつけた僕が見たものは、真理さんの部屋にいるあの男の姿だった。

もう戻っていたのか。

あの使用人が出ていったと知ると、もう他の女に手を出すのか?

そんな男でいいんですか?真理さん。

でも、これは僕が望んだ結末だ。

真理さんが望んでいた事だ。

彼女が幸せになる為の最善の・・・

彼女を幸せにするのは僕だった筈なのに!

僕は馬鹿だった!

今まであれほど我慢をして、彼女にとって『都合のいい男』を演じて来たのに、それを続けていればこんなに激しい拒絶を受ける事などなかったのかもしれないのに、彼女の目を覚ましてやる事が出来たのかもしれないのに。

あんな男ではなく、僕を選んでくれていたかもしれないのに。

僕は真理さんの前に姿を現す事無く、2年間の研修を終えて実家に戻った。





そして、待っていたのは許婚との結婚だった。

僕はどうしても乗り気になれなかったが、これといった理由も無く引き延ばすのにも限度があり、周りが準備を整えていった。

けれど、妻となった許婚とはやはり上手く行かず、結婚後半年もしないうちに別居状態となり、離婚調停が始まった。

ケチな父親が慰謝料を払うのを渋った為に、調停は長引いた。

そんな時、僕は学会に出席する為に上京する事になった。

タクシーを走らせながら、そう言えばこのあたりに真理さんの家があったな、と思い起こしていた所為か、日傘を差した和装の女性が目に入った。

走る車からその顔を見る事は不可能だったが、日傘を差した女性は子供を連れている様だった。

気になった僕は、真理さんがどうしているのか調べる事にした。

あの男と結婚して子供を生んだのだろうか?

幸せならば・・・それでも構わないが、もし不幸な目に遭っているのなら、今度こそ僕に出来る事があるのではないだろうか?と未練がましい事を思い描きながら。

そして知らされた事実に、僕は愕然となった。

真理さんには4歳になる男の子がいた。

けれど、結婚はしていない。

あの男は子供を認知だけして、未だに結婚をする気が無い様だった。

出ていった使用人が亡くなって、遺された彼女の子供達があの男に引き取られているのだと言う。

それでは真理さんと彼女の子供の立場は?

僕は報告書に書いてある、真理さんの子供の名前と生年月日を何度も見直した。

『武居杜也。1992年4月20日生まれ』

あれは・・・1991年7月だった。

そして、あの男が戻ったのは9月を過ぎていた筈。

それに『杜也』という名前・・・

もしかして・・・この子は僕の子供なのか?

あの頃、僕は僕らしくも無くとても動揺していたので見抜けなかったのか?

彼女の嘘を。

どうして彼女が僕と『逢わない』と言ったのか?

そのすぐ後に、当時、許婚だった妻が『彼女に会った』と言っていたのに。

プライドが高い彼女が、許婚のいる男との付き合いなど続ける筈が無い事は判っていた筈なのに。

どうして今まで一度も確認しなかったのか?

彼女があの男と幸せに暮らしているのを見るのが怖かったからか?

もっと早く気づいていれば、もっと早く・・・

僕は父親を説得して離婚調停に片を付けた。

妻の言い値の慰謝料を払って、離婚を成立させた。

そして5年振りに真理さんに会いに行った。

7年前と同じように、彼女の稽古の帰りを待ち伏せて。

「お久しぶりですね、真理さん」

突然、現れた僕に彼女はとても驚いていたが、一瞬の動揺から素早く立ち直った彼女は、最後に逢った時と同じように冷たい視線を僕に向けた。

「もう二度とお会いしないと申し上げませんでしたか?お話する事も無い筈ですが」

日傘を差して、着物姿の真理さんは、キツイ眼差しをしていても、相変わらず綺麗だった。

ああ、この人は少しも変わらない。

どうして僕はこの人から離れる様な真似をしたんだろうか?

僕は自分の愚かさに泣きたくなって来た。

僕を無視しようとする真理さんに、僕は必死で縋って求婚した。

けれど、少しも相手にされなかった。

僕は子供の父親について言及した。

子供の誕生日と名前についても問い詰めた。

だが、真理さんは「子供の父親はウェルナーです。認知もして貰っています」の一点張りで、僕の言葉に耳を貸そうともしなかった。

焦れた僕は「では、DNA鑑定をして貰うようにあの人にお願いしましょうか?」と持ちかけた。

すると真理さんは「余計な真似をしたら、あなたを殺して私も死にます」とまで言った。

そんなに僕が嫌いですか?

僕は真理さんの怒りの前にスゴスゴと退散するしかなかった。

彼女を怒らせて無理矢理に事を進めれば、以前の二の舞になりかねない。

時間を掛けて、じっくりと説得するしかないのだと思った。

月に何度も上京し、彼女に逢おうとしたが、尽く無視をされ、話も満足に聞いて貰えなかった。

でも、僕は二度と諦めないと決めていた。

真理さんを諦めてどんな思いをしたのか、どんなに後悔したのか、今でも後悔はし続けている。

真理さんが『子供の前に姿を見せないで』と言うので、遠くから見詰める事しか出来なかったが、真理さんの子供は僕の子供だ。

本当なら、あの子は真理さんと僕との間で無邪気な笑顔を、真理さんだけではなく、僕にも向けていてくれた筈なのだ。

僕は自分の不甲斐無さから失ったものの大きさに、何度も何度も後悔を噛み締める事になった。

死ぬまでに承諾して貰えればいい、と僕は遠大な計画を立てた。





けれど、周りは放って置いてはくれなかった。

再婚しろと、子供を作れと煩い。

僕は仕方なく、真理さんとの子供について話した。

すると、父親は『子供だけでも引き取れないのか?』と言う。

それは無理だと断ったが、子供を医者にするのは出来ない相談ではないと考えた。

彼が進路を決める前に、真理さんには内緒で会って話をすれば・・・不遇の立場にいる彼だってあの男に不満が無い訳じゃないだろうし、上手く行くかもしれない。

僕は杜也くんが高校に上がる前に会う事にした。

そして話をすれば、案の定、彼は戸籍上の父親に不満を抱いている様子で僕の言葉を信じてくれた。

僕を実の父親だと認めてくれたのだ。

僕は嬉しくなって、彼と小忠実に連絡を取り続けた。

上京する度に会い、真理さんの目を誤魔化して実家にも連れて行って両親にも会わせた。

老いた両親は、突然現れた優秀な孫に歓んでいた。

杜也くんは僕と真理さんの子供なだけあって、とても優秀で医学部を目指す事に何の問題も無かった。

ただ、杜也くんが僕と会った事を漏らしてしまった為に、彼女の僕に対しての壁は高くなってしまったけれど。

それでも、杜也くんと二人で真理さんを説得する事が出来る様になった。

彼もあまりしつこくしては逆効果だと悟ったのか、僕の長期戦の構えに異議を唱えなくなった。

結局、僕はあの男が亡くなるまで長い間、待たされる事になった。

けれど、少しも後悔はしていない。

途中で諦めていたら、真理さんも杜也くんも手に入れる事は出来なかっただろうし、それに待っている時間は少しも苦にならなかった。

真理さんを諦めて、他の女と結婚して過ごしたあの辛い日々の事を考えれば、いつか必ず訪れる時を楽しみに待つ事など苦にはならない。

それにしても、真理さん。

死んだ男に対して1年も喪に服するのはどうでしょうか?

杜也くんの研修も始まりますから、少し早く籍を入れてしまいませんか?

ホラ、国家試験に受かった時には新しい名前の方が良いですし。

真理さんは渋々、と言った感じで僕の説得に応じてくれた。

これで杜也くんが前期研修を東京で終えて、後期研修をこちらでする事になれば一緒に暮らせる。

僕の時代とは違って研修期間が延びたのが辛いが、それでも彼が戻って来れば、ウチの病院は優秀な外科医を迎える事になるし、と待ち侘びていたのだが。

杜也くんが選んだ女性に些か問題があった。

あの男の娘とはまた・・・何かの呪いですかね。

真理さんも杜也くんも、僕が波生瑠璃と言う女性にした事を知らない。

僕と真理さんは杜也くんの結婚に反対する資格も権利も無い、と真理さんを説得したけれど、真理さんに良い感情を持ち合せていない彼女は真理さんに辛く当たる。

僕は見兼ねて、彼女に願い出た。

「あまり真理さんを苛めないで下さい。あなたのお母さんが出ていったのは真理さんの嘘だけが原因ではないんですから」

そう、彼女の母親である波生瑠璃と言う使用人があの男の家を出ていく決意をしたのは、真理さんが彼の子供を宿していると言う嘘をつく前の筈だ。

そう説明しようとしたのだが、僕の話を聞く前に彼女はクスリと笑った。

「そんな事は判っていますわ、杜也さんのお父様。私の母は自分の意思で私達を連れて出て行ったのですもの」

彼女はどうしてか、知っていたようだった。

ならば、何故?

問い掛ける視線を投げた僕に、彼女はニヤリと笑って答えてくれた。

「でも、杜也さんのお母様って、虐め甲斐がある方だと思いませんか?剥きになって言い返して来たり、酷い事を言われて言葉に詰まったり、一々反応が素直で可愛らしいですわよね」

まぁ、死ぬほど傷め付けたりは致しませんわよ、と冷酷に笑った。

これはまた・・・杜也くんも大変なお嫁さんを貰ったものだ。

杜也くんも僕に似て、穏やかそうな外面とは違った性格をしている様だが、この嫁も可愛い顔をして残酷な事を好む様だ。

あのか弱そうでも芯が確りしていた母親に似たのか?

それとも、冷酷な父親に似たのか?

そんな二人の子供達はどちらに似るのだろう?

末が楽しみな様な、恐ろしい様な気がする。


まぁ、僕に似るよりは余程ましかもしれませんが。

僕は困った様な苦笑を浮かべて、再度彼女に願い出た。

「でもね、静香さん。あなたが真理さんを恨むのは筋違いと言うものですよ」

「あら、どうしてですの?」

僕は、これを聞いた彼女の反応が楽しみになった。

「あなたのお父様ですが、亡くなった原因は本当に事故だったのでしょうかね?」

僕の言葉に彼女はパチクリと瞬きをした。

「・・・どう言った意味でしょうか?」

そんな彼女に僕はニッコリと笑いながら、一見、話題を変えたかのような話を始めた。

「僕が真理さんと出会ってから、もう33年ほど経ちますが、あの頃から彼女は綺麗で一途な人でした」

遠い昔を思い出すかのように、僕は視線を遠くに投げて話し始めた。

「初めて彼女を見かけた時から、僕はもう彼女に一目惚れをしてしまいましてね。あの美貌ですから当然ですが」

彼女は私の話を黙って聞いてくれている。

「それで猛然とアタックしたのですが、残念な事に真理さんは僕と知り合う以前にある男に出会ってしまった為に、 その男に心を奪われていましてね。僕はどうして彼よりも先に彼女と出会えなかったのか、後々ずっと悔しい思いをさせられましたよ」

そしてそれは今でも続いている。

あの男さえ、真理さんの前に現れなければ、と僕は今でもそう思っている。

眼鏡越しに、彼女に冷たい視線を送ると、それを察したのかスッと一瞬だけ視線を逸らせた。

おや、殺気を感じてくれるとは、満更鈍い訳でもないんですね。

「彼の娘であるあなたの前でこんな事は言いたくはありませんが、彼は自分の子供を認知しても、女性と遊び歩いて、子供を生ませた女性と結婚する事もしなかったような人でしたしね」

何かを言いかけようとした彼女を僕は手を上げて遮った。

「もちろん、あなたのお母さんが強く望まなかった所為でもあるのかもしれませんが、結局あなたの父親はあなたの母親を見殺しにした。女性一人で双子を含む子供を3人も育てて行くのがどれだけ大変な事なのか、知らないでは済まされないでしょう?彼の財力を持ってすれば、探し出して援助する事など容易かった筈なのに」

あなた方親子は彼から遠く離れた場所に住んでいた訳でもなかったのですからね。

僕の指摘に彼女は沈黙した。

「あなたが自分の母親を死に至らしめた原因だと恨むのは、あなたの父親が一番相応しい筈ですよね。真理さんではなく」

クスリと僕は笑いを零した。

「もっとも、あなたはかなり父親に心酔していたようですから、認める事は難しいのかもしれませんね」

そして、一時でも父親の愛人であった真理さんが憎かったのでしょう?

全て、彼女の所為にしてしまおうと考える様になる程。

「僕もね、その気持ちが判らない訳じゃありませんよ」

少し青ざめた顔をした彼女に僕は優しく話しかける。

「だって、僕もあなたの父親が邪魔で邪魔でしょうがなかったですから」

そう、あの男の存在があったばかりに、真理さんは僕の求愛を拒み続け、僕に対して頑なに心を開かなかった。

そればかりか、僕の子供をあの男の子供だと言って認知までさせた。

「身に覚えがあり過ぎるから、自分の子供でもない他の男の子供でもあっさりと認知出来たんですよね?」

僕はそんなあの男の軽率な行為が許せない。

その為に、僕は自分の子供を法律的に認めさせる事に苦労したのだから。

「杜也くんは僕が名乗り出ると、僕を父親だと認めてくれましたけど、真理さんは頑なに認めようとはしてくれませんでした」

それは一重にあの男の存在があったから。

「結局、彼が亡くなるまで真理さんは僕と一緒にはなってくれませんでしたからねぇ。彼が亡くなってくれて、僕としては万々歳でしたよ。娘のあなたには辛い事だったかも知れませんが」

ですから

「もっと早く彼が亡くなってくれていれば、と僕は思わずにはいらせませんねぇ」

そんな僕が彼に殺意を抱いた事が一度でもなかったと、あなたは信じますかね?静香さん。

僕の問い掛けに、彼女はギリギリと歯を食い縛る様に僕を睨みつけた。

おやおや、怖いですね。

気の強い女性は嫌いではありませんが、僕が殺されそうな勢いです。

「お父さん、静香さんを苛めるのは止めて下さい」

邪魔をしたのは呆れた様な声を出した杜也くんだった。

おや、残念。お遊びはここまでですか。

「静香さんがあまりにも真理さんを虐めるものですからね、つい」

笑ってかわした僕に、杜也くんは湯気が出そうなほど腹を立てている彼女を宥めに掛かった。

「静香さんも、僕の母を苛めるのは程々にして下さい。僕の父はこう見えて結構喰えない人ですから」

僕やあなた如きでは太刀打ちできませんよ、と呟いた。

おやおや、随分な言われ様ですね。

これでも僕は、妻と息子と息子の嫁と仲良く家族団欒をして過ごす事を夢見ているのですが。

「仲良し家族に憧れているんですけど」

そう呟いた僕に、杜也くんはこう言った。

「お母さんと存分に仲良くしていて下さい」

モチロン、言われなくてもそうするつもりですよ。






 






























 

Postscript


別館に掲載していた「月とスッポン」の雅也サイドのお話です。

またしても長くなりました・・・まぁ、30年間の話を書くのだから仕方ないのかなぁ。
それにしても長いなぁ・・・
エッチも温いしなぁ・・・こっちに持って来る必要があったのか?と言うくらいヌルイ!
けど、それなりに描写があるので、アッチの別館ではマズかろうと思いましたのでこちらに。

実はここで一番書きたかったのは『雅也と瑠璃の会話』です(苦笑)
瑠璃は真理の嘘に驚いて傷ついたとは思いますが、使用人の立場で妻になれるとは思っていなかったし、なりたいとも思っていなかった。
ウェルナーがはっきりと意思表示をしなかった所為もあるのでしょうが、瑠璃の使用人根性が常に彼女を退いた立場にさせて、そんな彼女の態度にウェルナーもウンザリしていたのだと思います。
それでも、子供を3人も作ったのは、其れなりの愛があったのでしょうが(欲望だけだと哀しいものがあるしな)


雅也の喰えない部分が出せていたらいいのですが(苦笑)

と以上が別館の後書き。


そして、追加した雅也のダークサイドを曝して静香を怯えさせる・・・つもりが怒らせただけ?
管理人が常々言っている様に、ウェルナー・クリフォードと言う男は最低な男なのです。
瑠璃を見殺しにしたのはあの男です。
勿論、彼だけが悪い訳ではありませんが、一番悪いのは彼です(それを贔屓していた管理人も酷い人)

一時的にとは言え、真理を諦めた雅也にも非はあります。
雅也がウェルナーを批難する資格はありません。
雅也が悔やんでいる様に、彼がずっと真理の傍にいれば、杜也は彼の子供として生まれ育っていたのかもしれないのですから。

拍手などで皆様が仰ってくれていた様に、親の失敗を教訓に、子供達には幸せになって欲しいものです。



別館 200910.6-7.up HP2009.10.7up



 

 

 

 

 

 

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